【防大卒の元幹部自衛官の実態】ゆうちってどんな人?
はじめまし、元幹部自衛官のゆうちです。
この記事では私ゆうちについてと自衛隊の理解を深めてもらいたいと思います。
よろしければ、気楽にぜひ読んでください。
みなさんは、自衛隊に対してどんな印象をもってますか?
なんか怖そう、近寄りがたいと感じる人、もしくは災害派遣で助けられて感謝している人もいるかもしれません。
最近では国外の安全保障環境はより緊張感が増しています。
国内では大規模震災がいつ起きてもおかしくない状況に加えて、日常的に数十年に一度の大雨は当たり前のようになり、土砂崩れや川の氾濫を見る機会も増えました。
このような環境で、自衛隊の必要性は増しています。でも、あまり、自衛官というものがまだよくわからなないという人も多いのではないでしょうか。
私は防衛大を卒業し、20年以上自衛隊を勤務しました。
その後、主要な指揮官などの役職をやらせていただいたため、新たな分野に挑戦したいと思い現在の仕事に就いています。
内気な性格だった私が、どのようにして防衛大学校と自衛隊に鍛えられ育てられてきたのかを紹介します。
自衛隊を退職し数年し40歳代になり、ここで改めて自衛官人生について振り返ってみたいと思います。
私は、自衛隊を途中で退職しましたが、防衛大と自衛隊は好きです。そして、勤務してきたことを誇りに思っています。
特にこの記事では、
- 防大卒の元幹部自衛官に入学してよかったこと
- 自衛官で勤務してよかったこと
を中心にまとめてみます。
漠然と自衛隊に興味がある人や自衛官と付き合ってみたい女性の方など幅広く楽しんでもらえるとうれしいです。
私の生い立ちも知ってもらうために、中学時代から発信していきます。
シャイボーイな中学時代
ゆうちの中学時代はとてもシャイな男の子でした。中学時代に自慢できることは、二つ。
一つは卓球部の部長であったこと。
もう一つは、授業中に一度も手を挙げて発表しなかった(できなかった)こと・・・(やっぱり、自慢にはならないかなw)
手を挙げなかったのは、初めからポリシーがあって挙げなかったのではなく、授業のたび手を挙げようと毎回努力した結果、一度も挙げれずに3年間終わってしまいました。
「間違っていたらどうしよう」と手を挙げたい意思はあるものの、いつも授業中は不安でした。
それと、隣の女の子に恥ずかしくてほとんど話しかけれませんでした。完全な自意識過剰ってやつですね。
特に、給食の時間に隣の女の子と机を迎え合わせにして食べるのは、恥ずかしくてたまらなかった。
毎日、隣と女の子と話す内容を考えて、いつもイメトレしていたんですよ。でも、できなかった・・・
シャイと言ってしまえばいいのか、まぁ、内気で自意識過剰な中学生でした。(それは今もやっぱり当てはまるか)
みなさんも、そんな経験なかったですか?
暗黒時代の高校時代
ゆうちにとって高校時代は、大きな挫折を味わった暗黒時代でした。
比較的成績は良かったので、運よく県立の進学校に入学することができました。(男子校でしたが・・・)
特徴的なのは、私の高校は、校則がほぼありません。制服がなく私服でとても自由な校風です。
男のシンクロが有名で映画「ウォーターボーイズ」のモデルにもなり、文化祭は1万人以上くる盛況ぶりでした。(女子高生同士でくる集団がまぶしかったなぁ・・・)
そんな自由で男同士で青春を謳歌してもよさそうな中、ゆうちはエネルギーあふれる友達に溶け込むことが、入学以降ずっとできませんでした。
挽回しようと勉強を頑張るも成績は底辺クラス、部活もなかなか成果がでない。
中学時代は、成績が良くて部活の中心人物というのが勝手に自分のよりどころだったのが、それがもろくも崩壊しました。
しかし、勉強だけは成果をだそうと、高校2年になったとき部活を辞め、ひたすら勉強を頑張りました。
しかし、その成果は出ず、引き続き成績は低空飛行。
唯一仲の良かった部活の友達も部活を辞めて以降疎遠となっていきました。
2年生、3年生は友達もいなく、文化祭の日も出席を取ったらすぐに、裏口からコソコソと帰りました。学校は大盛り上がりの中、トボトボと帰った寂しい気持ちは今も忘れられない。これがゆうちの青春の思い出です。(自分で書いていて寂しすぎる。)
みなさんの高校時代は青春してましたか?もしくは、恋愛もしてましたか?
みんないろいろな人生があるものだなとしみじみします。
人生ひとそれぞれ。いい時もあれば、悪い時もある。
そして、「幸せは自分自身の中にある。」これは、宇宙飛行士の野口聡一さんの言葉で、私が好きな言葉です。
とても、深い。
そんな、勉強にささげた高校時代、相変わらず成績は低空飛行。
だけど、よい大学に入らなくてはとプライドは高く浪人することになります。
成長がなかったの浪人時代
浪人したら勉強時間も増えるし、成績も伸びるだろうと思っていました。
だけど、やっぱり伸びませんでした。
高校2年からひたすら勉強しても伸びなかったのだから、抜本的に勉強のやり方をかえないとダメなことにそのときは、気づかなかった。
その後知ったことは、浪人しても第一志望に受かる人は1割らしいですね。
勉強は、「暗記ではなく理解が重要」。
この当たり前のように言われていることをどこまで理解できているかで成績の伸びは全然異なるものだと大人になってわかりました。
成績は低空飛行のままでしたが、防大の試験は9月に行われます。
父親が自衛官ということで、防大は試しに受けてみようと軽い気持ちで受験しました。
しかし、入学するつもりはゼロでした。
学校の集団生活になじめない内気なゆうちが、防大、そして、自衛隊でやっていけるわけない、と思ってました。
今でも不思議なのは防大の試験だけはスラスラ解けました。
その後、10月には防大の合格通知が来ました。
合格はうれしかったけど、入学するつもりもないし、むしろ合格して当然だくらいに思っていました。
だけど、この合格が、第一志望もなんとかなるなと慢心を招くことになりました。(はい、これは言い訳ですね。)
その後、防大の合格がわかっていたので、滑り止めは受けずに臨みました。
そして、結果は全滅・・・
はい。入学するつもりのない防大を滑り止めにする、これは完全に誤りでした。
ここで、2浪するか防大にいくかの選択を迫られました。
そして、私は防大生になる決心をしました。(この決心を何度も後悔したかわからないが・・・)
このとき、2浪を選ばなくてよかったと思います。
きっと、2浪してても希望の大学には受からず、コンプレックスを持ったまま大学生活を送ることになっていたと思います。
このとき、母親は絶対防大を辞めて帰ってくると反対でした。
なんで他の滑り止めの学校を受けなかったのか、なんでもっと勉強頑張って成績をあげなかったのか、この親不孝者と泣かせてしまったのは、ホント精神的にきつかった。
浪人生活を通じて得たものは、時間をかけたら成果がでると限らないとわかったこと。
この失敗体験でした。
当時は、自分はなんて能力のない人間なんだとあきらめていましたが、集中力と思考訓練が決定的に欠けていたのだと思います。
その後防大入学までに、今でも忘れることのできない印象的なイベントがありました。
それは、自衛隊の広報関係者が主催して、防大入学以外にも自衛隊入隊予定者全員に対して行ってくれた壮行会です。
これは、自衛隊が後輩たちに対して、激励と安心して入隊してもらいたいという意図で行ってくれたものですが、私には逆効果でした。
そこで感じたのは、戦前中にタイムスリップしてしまった、という思いです。
母親も全く同じ思いをもったそうです。
場所は日比谷公会堂でした。
この日比谷公会堂も、非常にレトロで三島由紀夫でてきそうな、または、学生運動をまだやっていそうな独特な雰囲気をまとう場所でした。
そして、そこで行われたのは、その時、私が感じた主観でいうと北朝鮮のお祭り。
にぎやかな楽器演奏会とともに、いろいろな偉そうな人(?)が「自衛隊の入隊は心配しないでください。」、「みなさんの入隊のおかげでこの国の平和が守られます。」などなど、講演をしてくれました。
そんなの、「心配しないでくれ」と言われたら心配する何かを隠しているのではないか。
「皆さんのおかげで平和が守られる」と言われたら、自分が人柱にでもなる気分でした。
帰りの道では、母親からは息子を戦争に送り出すようだと、また、泣かれてしまいました。
ゆうちも、自分の人生の先が見通せず、「オレの人生終わった・・・」と本気で思いました。
だけど、終わってしまったらいい思い出ですね。(笑)
長くなりましたが、ここまでで生い立ち編終了です。
次は、防大入学編になります。